2025.02.28

ケアすることと経済合理性

ここ最近、立て続けに介護や自立支援といった福祉系の法人の案件を手がけていて、そんな矢先、実母がケガをして介護が必要になった。

さらに、いつもダジャレを言って私を笑わせてくれていた義父も言葉数が少なくなり、外出するにも誰かの助けを必要とするようになってきた。

そんな日々の中で思うこととしては、なぜこんなにもケアワークは社会的に評価されづらいのだろうということだ。

どれだけ生成AIが進化しようとも人のケアはできない。
仮にできたとしても、そこにあるはずの「人のぬくもり」までは再現できない。
「人が人をケアすること」の尊さをますます感じるし、少子高齢化社会ではなくてはならない仕事である。

これまで、私はケアワークに携わる人たちに悪い人に出会ったことがない。
みんな優しくて思いやりがあって、こちらが救われることが多い。

子どもたちが小さいときの保育園の先生は未だにうちの息子や娘を気にかけてくれる。
母がお世話になっているケアマネジャーさんは何度も何度も同じことを言う母の話を明るく傾聴してくれる。

ほんの少しの思いやりや、さりげない気遣いに本当に助けられる。

けれど、一方でどうしてこんなにも福祉の仕事は賃金が低く、仕事としての社会的評価も低いのだろうと思う。
国が処遇改善に取り組んではいるものの、非正規雇用も多く変わりきれない。

日本では介護や育児といったケアワークは長らく家庭内の無償労働とされてきて、
「誰にでもできる仕事」と捉えられがちだというのが低賃金である理由の一つらしい。

いやいや誰にでもできない。人の気持ちに寄り添う感情労働で、極めて高度な専門職だ。
福祉先進国の北欧では、介護職の多くが公務員または自治体職員として雇用されている。

命を育んだり、慈しんだり、ケアすることは市場の原理に適用されづらいのはわかっているが。
一方でそれが子育てや介護や病気との両立を理解されづらく、合理性を最優先されてしまっていることにもつながっていると思う。

ケアする人たちが安心して働ける社会になるために、私も微力ながら何ができるか考えたい。